四角いフライパンを火にかける。油を敷いて中火で熱したら、調味料と混ぜた溶き卵を流し入れていく。まだ全部は入れない。半熟になったら奥側から手前側に巻いていき、卵を足す。また巻いて、足して、巻いて。同じように繰り返していく。
日本に来てから多くの日本食を試してきたが、その中でもこれが一番作る機会が多い。初めて弁当に入れてから毎度しつこくリクエストされるようになったため、もう言われなくても毎日入れるようにしている。日本では弁当に入れる定番のおかずらしいから丁度良い。最初は上手く形が作れなかったのだが、今ではもう慣れたものだ。
朝食と弁当の用意をするこの時間だけは、落ち着いて料理ができる。早朝に起きるのは正直キツいが、誰にも邪魔されず静かに過ごせるのは悪くない。
料理も釣りも同じだ。目の前の獲物と、この手に握った道具に意識の全てを集中させて、己自身と向き合う。雑念は消すべきだ。
無心で卵を巻いていると、リビングから小さな物音が聞こえてきた。誰かが起きてきたのだろう。気にせず手を動かすが、足音が徐々に近づき、やがてキッチンまで入ってきた。この静かさならビャクヤ以外の誰かだろうか。
「ヨル、おはよ」
声が聞こえたと同時に、背中に軽く何かがぶつかった。声の主は、そのまま背後から腹に手を回して抱きついてくる。料理中は近寄らないよう、常日頃から言い聞かせているのだが。思わずハァ、とため息を吐く。
「おいトキシン、火使ってる時にくっつくんじゃねぇ」
危ねぇだろ、そう付け加えながら腹に巻きついてる腕を離そうとするが、逆に力を込められて離れない。それどころか、オレの左肩に顎を乗せて更に密着してくる。暑苦しい。
「火を使ってない時ならいいの?」
「そういうことを言ってんじゃねぇよ」
なんて言っている間に出来上がったのだが、皿に移して切り分けている今この瞬間も背中に纏わりついているのだから鬱陶しい。
作っていたのは──トキシンお気に入りの、砂糖多めの玉子焼きだ。
「いい匂い……美味しそうに出来てるね」
「ハッ、当たり前やん?」
毎日作っているのだから、日々最高を更新しているに決まっている。今日の玉子焼きも寸分の隙もない出来だ。
「あ」
「……あ?」
先程まで背中に張り付いていたトキシンが、隣で口を大きく開いてこちらを見上げている。何のつもりかと僅かに眉を顰めたが、目の前の間抜け面を眺めていたらすぐに見当が付いた。
「味見してあげる」
……言うと思ったよ。
「それ、アンタが食いたいだけだろ」
「そんなことないって」
何が楽しいんだか、へらへらと笑っている。今朝のトキシンは随分と機嫌が良いようだ。
「ったく、仕方ねぇな……」
切り分けた玉子焼きのうちの一つを口元に持っていく。どうせ今作った分だけでは六人分の弁当のおかずには足りないのだから、元からもう一つ同じものを作るつもりだったのだ。一切れくらいならつまみ食いさせてやっても良いだろう。
「ふふ、優しいね」
「うるせぇさっさと口開けろ」
こいつが本心から言っているのはわかっているのだが、どうにもバカにされてるような気がしてしまう。なんとなくイラついて、トキシンの口の中に出来立ての玉子焼きを押し込んだ。
「ちょっ、熱っ……むぐ」
一瞬だけ、非難めいた視線が向けられた。生意気な弟の、そういう表情を見るのは気分が良い。機嫌が良いらしいトキシンは、熱々の玉子焼きを口に詰め込まれた苛立ちよりも、それを味わうことを優先させた様だった。
たった一切れの玉子焼きをやけにゆっくりと咀嚼していたトキシンが、締まりのない顔をさらにふにゃりと崩して笑った。
毎日毎日、言わなくたってわかっているのに──今日もこいつは、昨日と同じことを言うのだろう。
「俺、ヨルの作った玉子焼きが日本食の中でいちばん好き」